第5回 あなたの「おいしい記憶」をおしえてください

エッセーコンテスト 受賞作品




キッコーマン賞

   「キュウリの糠漬け」 対比地 百合子さん(愛知県・66歳)


読売新聞社賞

   「コトコト、ホクホク」 宮島 英紀さん(東京都・52歳)



入賞作品

   「アイツの握り鮨」 城田 光男さん(東京都・58歳)

   「おむすびの記憶」 関根 徳男さん(栃木県・60歳)

   「黒い手」 北村 大次さん(福岡県・41歳)

   「ひじきのいなり寿司」 三輪 咲枝さん(千葉県・50歳)

   「弟の手料理」 船本 由梨さん(兵庫県・28歳)

   「きりたんぽ」 木村 良子さん(栃木県・60歳)

   「サンマが旨いぞ」 印南 房吉さん(神奈川県・85歳)

   「ぐるぐるケーキ」 三上 真名美さん(東京都・45歳)

   「主夫奮闘記」 佐藤 哲也さん(千葉県・42歳)

   「美味しいは幸せの合い言葉」 保田 健太さん(神奈川県・19歳)

※年齢は応募時


審査講評  山本 一力(作家)


 

 


キッコーマン賞

 

「キュウリの糠漬け」 対比地 百合子さん(愛知県)

 

 子供の頃のあだ名は「キュウリ夫人」だった。母のキュウリの糠漬けが大好きで、それさえあれば、何もいらないという変わった子供だった。

 嫁入り道具には、母から分けてもらった糠床を一番に入れた。以来三十年間、糠床をかき混ぜ、キュウリを漬け続けてきた。

 そんな習慣も三十一年目の四月のある日を境に止まってしまった。五十三歳になったばかりの私は、入浴中にくも膜下出血になり、救急車で運ばれたからだ。幸い緊急手術で一命を取り留めた。手術は成功したものの、さまざまな後遺症が危惧された。

 検査の一問一答が始まった。名前、年齢、簡単な計算を問うものだ。ついに答えられない日がやってきた。それは好物の質問だった。

 キュウリの糠漬けと答えようと思ったのに、キュウリが出てこない。なんだっけ、なんだっけ。思い出そうと焦ると頭が痛んだ。

 「今日はここまでにしておきましょう」

 看護師は無表情のまま部屋を出ていった。

 こうして言葉が出ない日が続くうち、もう元の脳には戻れないかもしれないと、すっかり落ち込んでしまった。

 入院二週間目の日曜日、夫が手に保冷袋を持って面会にやってきた。冷えた器のふたを開けたその瞬間、

 「キュウリだ!」

 と私は叫んだ。それも糠漬けだ。

 男子厨房に入らずと豪語している夫がまさか、糠漬けを漬けるわけがない。

 「買ったの?」

 と夫に尋ねると、

 「僕が漬けたのだよ。朝晩糠床をかき混ぜてさ」

 と言って笑った。

 食べやすいように、カットしてあるひと切れを食べてみた。涙がこみ上げてきてよく味わえない。ふた切れ目を食べると、うすい塩味に微妙な甘みが舌にのる。シャキシャキとしたキュウリの歯ごたえと音が味覚をさらに刺激する。

 「パリポリ、パリポリ」三切れ目、四切れ目、ついに一本まるまる食べてしまった。

 「あぁ、おいしかった。生き返ったわ」

 出されたお茶を飲みながら、ふと慣れない台所で、糠床をかき混ぜている夫の姿が目に浮かんだ。胸がいっぱいになってお茶がむせた。

 「それにしても、主婦業三十一年目の私よりおいしく漬けるなんて許せないわ」

 夫にそう言うと、

 「おぉ、憎まれ口が出るようになったか」

 と言いながら、カラになった器をしまった。

 目には涙が今にも落ちそうになっていた。

 「今までの人生の中で一番おいしい食べ物だったわ。ありがとう」

 正座して包帯だらけの頭を下げた。

 

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読売新聞社賞

 

「コトコト、ホクホク」 宮島 英紀さん(東京都)

 

キッチンのかたづけをしていたら、フリーザーの奥から、ストックバッグに入った黒っぽいごつごつしたかたまりがあらわれた。

「はて? これはなにを凍らせたんだっけ」

のんきで忘れっぽい性格ゆえ、いくら首をひねっても、いっこうに思い出せない。そもそも、この黒くてカチカチにかたまった中身は、ほんとうに食べ物なのかという疑念さえわいてくる。

とりあえず、表面の霜をふきとり、しばらく自然解凍してみたところ、思いもかけず懐かしい味が封印されていることが判明した。それは昨年の夏、進行性のがんで亡くなった妻が、生前に作りおきしておいてくれた”つぶ餡”だったのだ。

甘いものを好む私のために、妻はたびたび北海道産の小豆を買いもとめ、良質の三温糖をもちいて、つぶ餡をこしらえてくれた。水色のエプロン姿でキッチンに立った妻が、シャモジを片手にコトコトと両手鍋で小豆を煮ると、湯気とともに、家中にやわらかな甘い香りがただよったものである。

ほどよく煮くずれたつぶ餡は、色つやも良く、これに茹でた大きめの栗をくわえてひと煮立ちさせたところで椀にうつし、ホクホクといただくのが、わが家のささやかな贅沢であった。

結婚して20年、子どもには恵まれなかったが、楽しい会話と笑いがたえない幸せな暮らしだった。とりわけ、食事時には会話がはずんだ。近所にパンダみたいな模様の仔猫が生まれたとか、街においしいタルトの店がオープンしたとか、電車から見た夕焼けがとてもきれいだったとか、日常のささいな出来事のあれこれが、食卓をいろどる無限の話題となった。あわただしい朝食のときでさえ、二人で話に夢中になりすぎて、勤めに遅刻しそうになることがしばしばだった。

それだけに、妻が逝ってしまってからの一人きりの食事は侘しいかぎり。笑いが消えた家のなかの静けさは、怖いくらいだ。

フリーザーに残されていたつぶ餡は、妻が治療の合間に作ったものにちがいない。いったいどんな思いで、妻はキッチンに立ったのだろう。元気になって、またホクホクとつぶ餡を頬張りながら、夫婦で愉快に話をする日が来ることを信じていたのだろうか。

それとも、いつか自分がこの世からいなくなっても、私が好物にありつけるようにと、作りおきしてくれたのだろうか。

私はストックバッグから出したつぶ餡を、いつもの両手鍋にうつすと、コトコトとあたためた。朱色の椀によそうと、あの甘い香りが湯気とからみ合いながら頬をなでる。妻が残していった最後の料理へ、

「ありがとう。いただきます」

と、手を合わせて静かに箸を取った。

口のなかにひろがる妻の味……私は、せっかくの甘さがしょっぱくならぬよう、涙をこらえて箸を動かしつづけた。

 

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入賞

 

「アイツの握り鮨」 城田 光男さん(東京都)

 

後ろからふいに呼び止められた。振り返ると、アイツだった。イヤな奴に出会ってしまったと運の悪さを呪った。中学時代のクラスメートだったアイツは、当時、いくつもの暴力沙汰で悪名を馳せた粗野な男だった。

「よう、久しぶりやのう」

ちょっと大きめのグレーの背広姿のアイツが笑顔で話しかけてくる中学を卒業して一年も経っていないのに、随分大人びて見えた。高校には進学せず、地元の鮨店に就職した筈だが、その後のことはよく知らない。

あと30分もすれば年が明けるという浮き立つような夜だったが、懐かしさよりも関わり合いたくないという思いが先に立ち、思わずひるんでしまう。だがアイツは屈託がない。

「ええところで会うたの。今日は大晦日やけん、特別に握らせちゃると親方から言われてのう。店が終わってから、初めて握ったんや」

傍らのベンチに移動しながら、アイツは手にしていた二つの折詰の一つを素早く解き、子どもが手品を演じるように「ジャーン」とおどけてフタを取った。

まだ「回転ずし」もなかった時代、握り鮨は大変なご馳走だったが、折詰の中に並んだそれは、大きさも形も不揃いで、シャリにのった鮨ネタには包丁を入れ直した跡があり、ひと目で素人がこしらえたものだと分かる。

「遠慮せんでええけん、食えや。こっちの折詰は母ちゃんの分やけ持って帰るがのう」

アイツは、初めて握った鮨を母親とつまみながら新年を迎えるつもりだったのだ。

そういえば、ぼんやりと思い出す。何度か学校に呼び出され、どことなく寂しそうにうつむいていたアイツの母ちゃん。

そんな母親と食べる『年越しのご馳走』を食べるわけにはいかないと何度も断るが、アイツは嬉しそうに醤油入れの赤い蓋をはずし、握り一つ一つに醤油を丁寧にかけていく。その大きな手は、ひどく荒れていた。

中学を卒業し鮨店に就職して8か月。まだまだ見習い中で、店の掃除や皿洗いなど雑用ばかりの毎日だが、最近になって酢飯を任されるようになった。年が明けたら握らせてくれると親方は言っている。そんなことを、アイツは問わず語りに語った。

「オレの最初のにぎりを、お前が食うとはのう、思いもせんかったわい」

逆の立場から、私もまったく同じことを思いながら不格好な鮨を一つつまみ、二つつまみしているうちに、除夜の鐘が聞こえてきた。

札幌冬季オリンピックに沸いた1972年が間もなく終わろうとしていた。

正直なところ、アイツの握り鮨が美味しかったのかどうかはよく覚えていない。ただ、やたらと鼻の奥がツンとして、まぶたがじんわり熱くなり、周りの景色がにじんで見えたことだけは確かだ。ワサビ入れ過ぎだろ!

そんなアイツは今、故郷で小さな鮨店を営んでいる。地元ではなかなかの評判の店だ。

 

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入賞

 

「おむすびの記憶」 関根 徳男さん(栃木県)

 

食物独自の香りがなくなると、味覚も失った。抗癌剤治療を開始して五日目のことだ。

入院前に読んだある脳腫瘍患者の手記に「臭覚、味覚がだめになり、すべてクサヤの臭いになった」とあった。私の場合は、食物の風味がなくなり、どれも化学薬品のような刺激臭がした。一気に食欲が失せ何も喉を通らなくなった。

隣のベットに大柄なお爺さんがいた。ほぼ寝たきりだったが、食事のときだけ起きあがり、ベットに正座し、猛烈な勢いで口にかき込んでいた。

「ウチの人はガダルカナル島の生き残りで…」と、付き添いのお婆さんが言っていた。生存本能が食欲の源になっているようだった。

とにかく食べなくてはならない。今後数ヶ月続く治療に耐えられるよう、体力を維持するのだ。治療は医師に任せた。私にできる闘病は「食べる工夫」をすることだと決意した。

病院食は薄味なので、妻が調味料や味の濃いおかずを次々と持ってきてくれたが改善しない。結局、ご飯にみそ汁をかけたり、お茶漬けにして何とか胃に流し込んでいた。

「エミのお小遣いで買ってきたよ」

毎日妻に付いてくる末娘から渡された小さな紙袋には、大福が一つ入っていた。嬉しくて一気に半分かじると、口中に甘さが広がった。お菓子なら食べられそうだ。

一段階クリアしたが、十分な体力維持には主食を食べる必要がある。最大のネックは、ご飯特有の香りが、不快な刺激臭になっていることだ。それを妻に訴えると、周り全体を海苔で覆った「おむすび」を作ってきてくれた。これなら、ご飯の臭気がしない。一口かじると、塩味がした。多めに付けてあるという。うまい。

突然、子供のころ海の家で食べた「おむすび」を思い出した。夏休みになるといつも家族で潮干狩りに出かけていた。潮風の匂い、海苔とご飯の懐かしい香りが、遠い記憶の中から蘇ってきた。

あのころの家族は五人だったが、父、弟、祖母と三人が相次いで亡くなり、母との二人暮らしが十年近く続いた。やがて結婚し、三人の子供を授かると、新しい家族とも「おむすび」を持ってよく出かけた。

私が癌宣告を受けたとき、母は「お前まで、この子らをおいて逝ってしまうのかい」と言った。

小さな三人の子供を置いて逝くわけにはいかない。家族そろって食べた、遠い日の「おむすび」の記憶が、新たな闘病への意欲となった。以後、病院にお願いして、私のご飯は「おむすび」にしてもらった。抗癌剤に適応したのかもしれないが、次々と味覚が回復してきた。

今年の二月。私は還暦を迎えることができた。三人の子供たちは、皆、社会人になっている。次は、孫たちを交え「おむすび」を食べる日を楽しみにしている。

 

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入賞

 

「黒い手」 北村 大次さん(福岡県)

 

春先になると無性に食べたくなる品がある。ツワブキの炒め煮だ。

毎週末。頬をなでる風に春の気配を感じるようになると、小学生の僕は母に連れられて野山に分け入り、産毛のついたツワの若芽を摘み集めた。下処理のため皮を剥けばアクで手は黒ずみ、石鹸で洗っても数日間は取れない。初めは手伝っていた僕も、細かい手作業と汚れることに嫌気が差し、いつしかその作業は母に任せきりになった。

六センチ前後に切り揃えたツワを油で炒め、だし汁、味醂、酒、醤油でイカと一緒に煮込む。この時期、その品は毎日、食卓に上った。ほろ苦い独特の風味は子どもの舌には大人すぎる味で、正直あまり箸は進まなかった。

忘れもしない中学一年の春、部活の地区大会に持たされた弁当にそれは入っていた。

「その泥色っぽいん、何?」

悪気はなかったのだろう。弁当箱を覗き込んだ友人の軽口に顔が硬直した。なぜか無性に恥ずかしかった。

「弁当にまでツワ入れんなや。つか、その手も汚ねえし」

反抗期のはしりだった。帰宅するやいなや、心無い言葉が口をついて出た。母はハッとしたように両手を後ろに隠すと、「それは悪かったねえ」と翳った表情で微笑んだ。以来、我が家の定番メニューは食卓から遠ざかった。

今なら分かる。七人兄弟の四番目として生まれた母の生家は決して裕福ではなかった。母自身の好物でもあったのだろうが、山野で採れるツワは貴重な自然の恵みだったのだろう。イカ釣り漁師の父と結婚して生活が安定してからも、贅沢とは無縁の人だった。

数年前。野菜直販所で見かけたツワを買い求め、自分で調理したことがあった。皮を剥き、炒めて調味料を合わせる。口に入れてハッとした。舌先に残る何本もの繊維。母の黒ずんだ手は、丁寧に下処理をしてくれていた証だったのだ。思わず電話をかけた。

「あん時はごめん」

照れ臭くて世間話に紛れ込ませてしか伝えられなかったが、やっと言えた。

「何か食べたいもんあるね?」

五月の大型連休直前になると、必ず母が訊いてくる。

「ツワある?」

面はゆさを抑えて素直にそう口に出せる程には僕も成長した。醤油の染みた、ほろ苦い独特の風味をおいしく感じるようにもなった。

「もっとええご馳走でも言やあええんに」

それでも母は声を弾ませる。ここ数年、繰り返されるやり取りを経て帰省すると、駅まで迎えに来てくれる母の指先はやはり黒ずんでいる。もう汚いとは思わない。僕にとって何よりのご馳走を作り出すしらえてくれる美しくて愛おしい両手だ。

 

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入賞

 

「ひじきのいなり寿司」 三輪 咲枝さん(千葉県)

 

「運動会のお弁当、何がいい?」

と、きくと、長女は決まって、

「いなり寿司。」

と、答えた。

保育園の運動会で、私は、母の作っていた、いなり寿司を思い出して作った。油揚げをお醤油と砂糖で甘辛く煮て、酢めしに炒った白胡麻を混ぜ込んで詰める。だが、油揚げがくっついて、酢めしが上手く、油揚げに詰められない。油揚げに、たくさん穴の空いた、いなり寿司が出来る。これが、長女のために最初に作ったいなり寿司。

料理番組を観ていると、

「いなり寿司を作る時は、油揚げの上を、お箸でローラー回転すると良いですよ。」

と、料理の先生が言われる。次に作る時、早速、実践してみる。目から鱗。要領よく、酢めしが詰められた。

長女が、小学生になったある日。子どもたちとスーパーに買い物に出かけた。お惣菜コーナーで、いつもはおとなしい長女が、

「これ、おいしそう。」

と、指差す。見ると、ひじきとニンジンの入ったいなり寿司が並んでいる。当時、食の細かった長女が、おいしそうと言ったことが嬉しくて、私は、いなり寿司を買って帰り、昼食に子どもたちと一緒に食べた。

「おいしい。お母さんも、今度、いなり寿司を作る時は、ひじきとニンジンを入れて。」

と、長女は、静かにゆっくり話しながら、おいしそうに少しずつ口に入れた。

次の運動会のいなり寿司には、長女のリクエスト通り、酢めしに、ひじきとニンジンを入れる。彩を考慮して、水気を切った浸し豆も加えた。いなり寿司をかじると、白い酢めしに混ぜ込まれた、黒いひじきと、赤いニンジン、緑色の浸し豆が、鮮やかに現れる。

お弁当の時、長女が、

「お母さん、浸し豆がシャキシャキして、おいしい。」

と、はにかみながら、にっこり微笑んだ。こうして、我が家のいなり寿司は、長女の好きな味に、バージョンアップする。

去年の中学校の体育祭。長女は、お弁当に、やはり、いなり寿司をリクエストした。体も、すっかり大きくなって、長女は、家族で一番たくさんのいなり寿司を食べた。

その二週間後、長女は急逝した。晴天の霹靂だった。お通夜に、家族で棺を囲んで、あの子の好物を持参し、浸し豆をシャキシャキ噛んで、食べた。

今もあの子に会いたくて、たまらなくなる。どんなに泣いても、もう会えないのに。でも、あの子は、ひじきのいなり寿司のレシピを私に残してくれた。ひじきのいなり寿司は、

「お母さん、おいしい。」

と、にっこり微笑んだあの子を、私の脳裏に蘇らせてくれる。

 

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入賞

 

「弟の手料理」 船本 由梨さん(兵庫県)

 

弟は寡黙だった。

寡黙というよりも、両親を避けていたと言えばいいだろうか。

 

それは、勉強について口うるさく言われていたからかも知れないし、

部活を辞めてゲームばかりしていたことで注意を受けたからかも知れないし、

成績が悪くて劣等感を感じていたからかも知れない。

確かなのは、年を追うごとに、家族を避けるようになったことだ。

大学生になってからはそれが顕著になり、朝は寝て昼過ぎに行動、深夜に帰宅。

家族と食事をすることはほとんど無かった。

そんな生活を続けて4年、大学卒業後、弟はアルバイトしていた飲食店でそのまま調理スタッフの社員となった。ますます帰りが遅くなり、しまいには近くにアパートを借りて引っ越してしまった。

 

「ヒロキが何考えとうか分からん」というのが親の口癖で、私が彼の連絡係になることもしばしば。なんせ、親からのメールにも電話にも弟は一切返事しないのだ。

幸い、私のメールには返事が来るので(返事と言っても3回に1回返ってくれば良い方だが)、たまたまお手ごろ価格で入手したドンペリ片手に、弟に連絡をしてみた。

 

「明日お母さんの誕生日だよ。私はドンペリをプレゼントするけん、あんた料理作ってあげりいよ」

すると、その日は運良く弟からの返事が来た。

「うん」

その後のメールには一切返事が無かったが、ま、いっか。明日来るだけでもよしとしよう。

彼がご飯を作ってくれるなんて、初めてのことだから。

 

翌日、ヒロキは家に早々と実家に帰ってきた。

「あんた仕事今日無いと?」という母の質問には、頷いて返事をし、何も言わずキッチンに立った。すかさず、私がフォロー。「これからね、ヒロキがご飯作ってくれるんだよ」と親に説明をする。もう、そんな説明まで私にさせんでよ、と言いながらも、内心とっても嬉しい。彼が、親のためにご飯を作るなんて。

 

10分もしない内に一品目が出てきた。最初はサーモンのお造り。綺麗にカットされていて、美しいオレンジ色。噛むほどにサーモンの脂と刺身醤油が交ざりあって、とても美味しい。あっという間に平らげてしまった。

一緒に食べようという両親の提案には反応せず、彼はその後もせっせと料理を続けた。

パスタ、アサリ蒸しと、ポテトサラダ。親が食べやすいように、全てあっさりとした味付けだ。

 

一皿食べるごとに母と父は、「おいしい。おいしいよ」と連呼して

時々弟が、「うん」と返事をする。

「ヒロキがこんなもの作れるようになったっちゃねぇ。お母さん知らんかったぁ。ねぇお父さん」

「そうやね。ヒロキ、美味しいぞ」という言葉にも

「うん」で返事。

 

とってもシンプル。だけど、それは、1年ぶりの、親子の会話。

 

その日、母は何度も呟いていた。「ヒロキ、おいしいよ」。

何度も、何度も、呟いていた。

 

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入賞

 

「きりたんぽ」 木村 良子さん(栃木県)

 

三十年前、夫の両親と同居を始めた頃の私は、圧力鍋でご飯を炊くのが下手だった。ご飯が柔らかすぎて、ふっくらと炊けない。退社して帰宅すると、義父が硬い表情で居間に座っている。「ただいま」と、挨拶しても返事をしてくれない。晩の食事中に急に立ち上がって、

「なんだ、この飯は! 飯の味がねぇ」

と、ドアをバンと力任せに閉めて、出ていくことが何度かあった。

見かねた義母が、水量は圧力鍋の内鍋に入れた米から一センチの高さになる、と教えてくれた。内鍋には水量線がない。教えられたとおりの水加減で炊いたが、うまくいかない。米をとぐ度に、自分が情けなくて、涙が出た。一旦、米と水を内鍋に入れ終え、蓋をしようとすると、緊張のせいか、入れた水が多すぎるように思えて減らした。減らすと今度は少なすぎたのではないかと、又、水を足した。これを繰り返しては、途方にくれた。

ある日、めずらしく祖母から電話があった。「今日は祭りだ。きりたんぽを作ったがら、飛んで帰ってごい」

義父の怒気を含んだ顔は、もうこりごりだ。帰れるものなら、心底、実家に帰りたかった。

秋田では、きりたんぽはごちそうだ。祭りには無くてはならないものだ。

数日後、思いがけず、母から手作りのきりたんぽが届いた。母の作るきりたんぽ鍋は、箸で持てる硬さのきりたんぽを口に入れたとたん、たんぽに染み込んでいる醤油と具の渾然一体となったスープが口いっぱい広がり、たんぽと共に溶けていく。母の味の記憶をたどりながら、悪戦苦闘した。鶏ガラで出汁をとり、椎茸とネギ、せりを入れ、醤油と酒で味を調えた。その中に切ったたんぽを加え、煮崩れないように注意した。鍋から白い湯気が立ちのぼり、きりたんぽのお焦げの香ばしいかおりが、鼻をくすぐった。

晩酌が終わった義父に、熱々のきりたんぽを出した。義父が丼を持ち上げて言った。

「うまいな!」

なんと義父の目が細くなり、口元がゆるんでいるではないか。

不思議なことに、この日が契機となり、義父は口を利いてくれるようになった。あれほど激怒していたご飯も、「まだ下手だな」と、口調も穏やかになった。

きりたんぽは、義父と私の仲を取りもってくれた。きりたんぽがなかったなら、上手にご飯が炊けるようになるまで、針の筵に座っているような日々を過ごしていただろう。

男性を射止めるには、胃袋を掴めと言われている。男性だけでなく、家族が仲良く暮らすにも、胃袋を掴むのは大事だと、痛感した。

毎年暮れに、実家の兄嫁がきりたんぽセットを送ってくれる。その箱を開けるたびに、今は亡き義父の顔がクローズアップする。飯がまずい、といきり立った顔ではなく、きりたんぽがうまい、と相好を崩した顔が。

 

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入賞

 

「サンマが旨いぞ」 印南 房吉さん(神奈川県)

 

地震・大津波、テレビや新聞に宮古、釜石、気仙沼の名が出るとサンマ漁船で一緒だった船の仲間達の顔と海面を翔んだサンマの大群が次々に浮かんで来る。ずーっと以前、鰯・鯵・鯖・サンマ等の群魚を海から真空で吸い揚げる装置を開発した時の事、陸上のテストではまあまあになったので愈々沖でやろうと装置を積み込み宮古の第六豊丸に乗組んだ。成功すれば画期的新漁法の開発となり金メダル獲得級の期待一杯だった。

サンマは夜行向光性、多数の集魚灯を順次操って集めたサンマを最後に左舷赤灯をカーッと点灯すると海面がグヮーンと盛り上がった。此れを今迄は大網で絞り掬っていたのを今日は私の出番、絞ったサンマの塊に直径二十aの透明ホースをズボリと突っ込む、ワーッと歓声、ホース一杯にサンマが真っ白な柱になって魚槽に躍り込んだ、跳ねる、跳ぶ、サンマの顔、顔、五dをアッと吸い揚げた。乗組員一同唖然、大拍手。サテ今度は本命の網無し漁法、海面ビッシリのサンマの層にホースを突っ込んだ、揚がって来たのは水ばかり、覗くとホースの口からサンマが逃げる、ピョンピョン逃げる、サンマだって命が惜しいんだと今頃判った。ガックリ座り込んだ私を皆が口々に

「半分は成功したんだ、大したもんだよ」と慰めてくれたがショックが大きく黙り込んだ。

朝、泳いでいるサンマを捌いて大皿山盛りに刺身を作ってくれた。刺身といっても三枚に卸したぶつ切りの山である、此れが又旨い。箸で山盛りの刺身にホンの一寸醤油をつける、噛む、コリッと歯応え、パッと拡がる味と香り、絶妙である。

「旨い!こりゃあ旨い!」と刺身ばかりゴッソリ食べていたら船頭(漁労長)が

「おっ、そんなに旨いか」…「ウン、旨い!」

「陸者(オカモン)でこんなにサンマ喰うとは」と妙に感心し以後帰港までの三日間、毎食サンマの刺身を腹一杯食べた。お陰で揚魚装置は使える所に使えばいいんだと割り切れた。

最後の夕食は豊丸恒例の釜ラーメンだった。此れが又凄い、一bはある鉄の平釜の沸騰した湯にサンマのぶつ切りをごっそり入れて醤油で味を調える、此処にインスタントラーメンの塊を次々に入れる、掬う、食べる、サンマの脂が凄く濃い、旨い!入れ替わり立ち代わり人が来る度にラーメンを継ぎ足す、誰もが黙々と次々に食べる、此れがホンとのサンマーメン、山ほどのラーメンが綺麗に消えた。

下船する私に船頭がホイヨッと

「これ持ってけや、ご苦労さん」と大箱をくれた、重かった。家に帰って開けたらサンマの開きがぎっしり詰まっていた。炙って食べる、一口ごとに太陽の味がした。三陸の人達の人情が沁み込んでいた。

今、皆、どうしているかな。

 

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「ぐるぐるケーキ」 三上 真名美さん(東京都)

 

チョコレート生地の、どこにでも売っているような安っぽいロールケーキ。それを母は、薄く切った。動かない左手をケーキの端に添えて。器用な右手で、うすく薄く。

ココア色のスライスを、バターを塗ったボウルに敷き詰めるのは私の役割だ。白い渦巻がきれいに見えるように、一枚ずつ丁寧に。

生クリームをハンドミキサーで固く泡立ててるのは弟。母は片手で、みじん切りにしたバナナを混ぜ込む。左脚をかばう装具に寄りかかって。唇は微笑んで瞳はとても真剣に。

クリームを入れたボウルの蓋になるように、ケーキのスライスをしっかり詰めていく。完成したら、そのまま冷蔵庫で二時間冷やす。ひっくり返すと、ドーム状で不思議な模様のチョコレート・バナナクリームケーキができる。とてつもなく簡単で、とてつもなく美味しい、それが母の「ぐるぐるケーキ」だ。

母はお菓子作りが得意だった。弟と私はいつも、母の作るおやつに先を争って飛びついていた。

わたしの十歳の誕生日には、見事なグランドピアノの形のケーキを作ってくれた。切ってしまうのが惜しいほどのケーキ。

その翌年、母は脳腫瘍で倒れた。ひと月近くも、凄まじい頭痛を我慢し続けていたのだ。病院に運ばれ、緊急手術をしたときには、命が助かるかどうかもわからない状態になっていた。

看病に明け暮れる父が不在の、暗い家の中。弟と私は、膝を抱えて廊下の隅に座り、母の料理で好きなものをいくつも言いあった。もう、食べられないのかなあ。ママのコーヒーゼリー、白玉、ピアノのケーキ……。

ぎりぎりのところで母は生還した。しかし、家に戻ったときには、左手と左脚が動かせない身体になっていた。きれいだった顔は、手術跡を残して歪んでしまっていた。

それでも母は、帰ってきたその日から台所に立った。動かない手を懸命に使って家事をして。私たち姉弟は、奇妙に無口になりながらも、家事をできるだけ手伝った。

でも、きっともう、ピアノのケーキは食べられない。幼心に、変化を受け入れるのには特別な強さが要ることを、はじめて知った。

それをいちばん知っていたのは母だった。

次の年の、弟の誕生日。母は片手でも作れる「ぐるぐるケーキ」を考案して、私たちに食べさせてくれたのだ。

そのときの動悸、跳ね上がりたいような気持ち、頬が落ちるほど爽やかに甘いバナナとクリームの香り、忘れることはできない。

幸せな日々は短く、病を再発した母は亡くなった。そのケーキのレシピを私に残して。

十数年後、弟が結婚した。どこか母に面影の似た、優しく芯の強そうなお嫁さんを連れ来たとき、彼は照れくさそうに笑って、私にこう言った。

「姉ちゃん、うちのケーキの作り方……俺の奥さんに、教えてあげてくれよな」 

 

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「主夫奮闘記」 佐藤 哲也さん(千葉県)

 

「ごちそうさま」子供達が食事を終えた。子供達からは「美味しかった」の言葉は無かった。

私が主夫になって三ヶ月経とうとしているのだが、料理に関しては毎日が苦戦しているのが現実なのです。

妻が他界してからの三ヶ月、悲しむ暇などなく、三人の子供達との慌ただしい生活の中で、私は一つの目標を立てたのです。それは子供達から自然に「美味しい」の一言を言ってもらうための料理。

私から「おいしい?」と聞くと「普通に、美味しいよ」とは返答はあるのですが「普通に・・・」ってと思い、主夫奮闘記が始まりました。

私は妻が他界するまで、お米すら研いだことすらなく携帯サイトを見ながらの料理。初めの頃は玉子焼きを焼いてもスクランブルエッグになり、目玉焼きをやっても水を入れる事を知らず、黄身までがカチカチ。とても人様に出せる物ではなかった。

子供達が一番好きな、おかずは妻の特製ハンバーグ。この三ヶ月で何回作っただろう。

初めて作った時のハンバーグは確か一番下の子が一口食べて「ごちそうさま」と言ったのを覚えている。

四十九日が過ぎた頃、亡き妻の実家に家族四人で遊びに行った時、妻の母が夕飯にハンバーグを作ってくれたのだが、子供達が口にほおばると自然に「美味しい」という言葉が口に出たのです。

私には「美味しい」=「ママの味」に聞こえ妻の母に作り方を聞き何度も通って勉強しました。その時、私の中では妻がライバルにも思えました。

先日、我が家で再度ハンバーグを作りました。今は四人家族なのですが食卓には五つのハンバーグを並べ、子供達から「何で五個 ?」と聞かれ、私は「ママにも食べてもらいたくて作ったんだよ」と応え全員で食事をしました。子供達から初めて「美味しい、ママのといっしょ」と言って貰え、妻に認めてもらった感じにさえなりました。

人は大人も子供も美味しい記憶は一生残り母から妻へ、妻から私へ、そして私から子供達へと確かにバトンタッチできたと確信しました。まだまだ料理に未熟な私が、偉そうな事は言えないのですが二つ目の目標ができました。それは「妻を越えた食卓」。

妻の味の記憶から私が進化させ、子供達に伝える事ができれば、妻も安心して見守ってくれることでしょう。

さぁ、主夫奮闘記・第二章スタート。

 

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入賞

 

「美味しいは幸せの合い言葉」 保田 健太さん(神奈川県)

 

食べることは生きることだ!そして「美味しいは笑顔の源」であり、辛い時も苦しい時も悔しい時も優しく寄り添ってくれる温もりだ!もうすぐ二十歳になる僕は、そのことを実感すると共に、本当に大切な宝物は細やかな日常の中にあると気付いた。

僕は平成六年、予定日より二ヶ月半早く誕生した。母に生命の危機が迫っていて、手術を受けなければならなかったからだ。僕もたくさんの線に繋がれ、小児専門の病院で必死に生きようと頑張った。だが僕は、全身の運動麻痺という障害を抱え生きることになった。人間が成長と共に、自然にできるようになる全ての動作ができないということだ。だから、僕は0歳からずっと、脳や全身の訓練を続けている。その中でも母が最も力を注いだのが、食事とそれに伴う訓練だった。不自由な分、できるだけ多くの美味しい物を食べさせてあげたい。強い体を作りたい。様々な食材を食べられるようになれば、必ず脳や体に変化が出るという信念を持っていたからだ。

幼児期は、初めて食べる物に胸を躍らせる毎日だった。何より食べることが楽しみだった僕は、口の訓練を喜んで熟した。太い鯣をしゃぶったり、ガーゼに包んだ飴をなめたり、フランスパンにつけた蜂蜜を吸ったり、成長に合わせ「美味しい訓練」は今も続けている。

何より僕が一生忘れることのないギフトは、中学三年間の手作り弁当だ。食べ易い工夫とバラエティーに富んだメニューには、愛情がこもっていて感動を隠しきれなかった。毎朝それを楽しみに起床し、勉強・訓練・学校生活など、様々な難局を乗り切ることができた。

全身の運動麻痺という障害を抱え、健常者と変わらない体を作るのは至難の業だ。驚くかもしれないが、現在の僕は一八〇センチ五五キロ、肩幅が広く筋肉質で、水泳選手のような体型だ。おかゆ以外はなんでも食べられる。歯医者での治療もできる。カラオケも歌える。数多くのスポーツも経験し、現在はトレーニングジムや水泳などを続けてる。五年以上、熱も出していない。この頑丈な体の根源が、母の手料理であることは言を俟たない。

その料理には母なりの法則がある。まず、七割が野菜で十種類以上使い、その他の食材もできる限り多く使う。メニューは、その日の活動量に合わせて決める。メインは、母が三品提案した中から僕が選ぶ。だから、僕の腹時計も心の時計も夕食が待ちきれない。食べ始めると、思わず赤ちゃんの笑顔になってしまう。全てを支え命を繋いだ「美味しい」は、僕の心のアルバムにずっと綴られている。

料理はまるで宇宙のようだ。あらゆる自然の恵みが、多くの人の努力で様々な食材として生まれる。そして、料理する人によって無限大の感動を呼び、微笑みの逸品として輝く。食べた瞬間、心がカラフルになり笑顔が生まれ、そこにしかない味に五感を奪われる。だから、このときめきと感謝を込めて伝えたい。

「美味しいは幸せの合い言葉」だから!!

 

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審査講評  山本 一力(作家)

 

今回は両大賞とも夫婦愛が選ばれた。

滋味に満ちたおいしい記憶の秀作である。

 

『キュウリの糠漬け』(キッコーマン賞)

 

 糠床の底に眠っていた古漬けの美味さ。

 その味を想像しつつ拝読した。

 カミさんが母から伝授された味を、あっさり超えた旦那。

 小説なら「さあ、どうする」となるところだが、この夫婦の展開は読んでの通りだ。

 作者と一緒に、旦那作のキュウリ糠漬けを賞味させてもらう喜びを満喫できた。

 

『コトコト、ホクホク』(読売新聞社賞)

 

 不意に連れ合いに先立たれる。

 長寿社会がますます進む我が国にあっては、この耐えがたき喪失感は、いつ我が身に生ずるやも知れぬ。

 本作は書き出しから結びまで、明るい筆致で描かれている。明るさの内に封じ込めた、作者の越えてこられたきつい道筋。

 受賞をふたりで喜んでいただきたい。


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